異化?

pansar2004-08-29

是枝裕和監督『誰も知らない』について(再び)雑記。
映画を見てからというもの、ずっと違和感が拭えず…

前の日記にも書いたのですが、終盤の(おそらくクライマックスと思われる)モノレールの場面あたり、タテタカコさんの「宝石」という挿入歌が流れてきたと同時に、それまでけっこう映画に引き込まれていたところから、一気に冷水を浴びせ掛けられたように醒め(それからどんどん冷め続け)たのですが、そのときは正直に、「あの歌、ない方がいいのに、、」と。
別に歌自体がどうこうというのでは全くないのですが(声も良いし、いい曲なのかと思います)、どうもあの映画にあの歌、、、いいの?というところから、白々としたものが広がることしきり。
しかし、この前ふと思ったのですが、あの歌、もしかして、ブレヒトいうところの異化効果を狙ったものなんじゃないか?と思いつき(友人からは即刻却下されましたが)、そう考えると、「子供!とか言って感情移入してんじゃねえよ!」との監督の隠された思い(おそらくこちらの思い込み)が伝わるようで、非常に納得(勝手に)したのですが、如何なものでしょう。
まあ、パンフレットには監督自身、「ラスト近く、夜明けの空港での明と沙希のシーンを書いていた時、僕の中でこの曲が静かに鳴り出し、彼らの歩きに寄り添うようにタテさんの声が聞こえた。」とか書いているんで、そんな見方は全くの誤読だというのは分かっては居りますが…。

こういうことを言うと、性格が悪い、もしくは、ひねくれたフリしてねぇで、アンタも仲間にお入りよ、と声をかけられそうですが、ああいう「歌」みたいなものにはどうも過剰に身構えてしまうところがありまして、特に映画やなんかでここぞとばかりに盛り上げられたりすると、尻の座りが悪くなって仕方ありません。ザッツ・エンターテインメント!な作品なら何の問題もないのですが、こんな風に享受して楽しんで(感動して)いいんですか?みたいな対象だとどうもいけません。

「〔シェーンベルクの作品に言及して〕あらゆる峻厳さと非妥協性にもかかわらずそれが、像にされることによって、あたかも犠牲者に対する羞恥心がそこなわれたかのようなのである。この犠牲者からなにものかが仕上げられる。犠牲者を殺した世界にえさとして投げ与えられる芸術作品である」と書いたアドルノ氏を引き合いに出すのはあまりに飛びすぎ、かつ強引過ぎるとは思うのですが、最近だとエレファントを観たときにも多少感じた、こういうジレンマはまさにジレンマのままといいますか。まして、Tシャツとか、買って着れないよなあ…という。

茂を演じたところの木村飛影氏(9歳)の実際の大好物だという「あとのせサクサクタイプの天ぷらそば」(しかも残ったスープにご飯を入れて食べるのは彼のオリジナルだそうです)をすかさずその日に食べておいて何も言えませんが…。
しかし、彼、オーディションのとき「1分もじっと座ってはいられず、何を聞いても『おら、わかんね』『それは言えねえな』の連発で会話が成立しなかった」というのを読んで、改めて感服。
バカ田バカ助(長尾 謙一郎)が頭をよぎりました…。

(ちなみに、写真は上野科学博物館前のクジラ像・目の部分のアップです)